2012年1月17日火曜日
マキノ退散
当時マキノには
杉作の松尾文人 片岡千恵蔵 月形竜之助 岡島艶子 鈴木澄子 高木新平 山本礼三郎 杉狂児 マキノ正博
月形は 悪魔の星の下に 二川文太郎監督 山上伊太郎脚本
道中秘記 井上金太郎 等 問題作 芸術派
此方は活劇専門 鳴門秘帖七篇 百万両秘聞三篇 マル秘ばっかり
片岡千恵蔵は 萬花地獄五篇 後二本撮って辞め
忠魂義烈・実録忠臣蔵の浅野内匠頭をやらせて貰う約束を
大将が守ら無かったから
此方は 大岡政談 丹下左膳役の中篇で辞め
長三郎)絆創膏で目ぇ潰して あんまり見られたものや無かった へぇ此の作品でマキノ辞めました
鞍馬天狗が三作目で最終篇と銘打たれた
此れに逆らった
止めると云うと 仏の大将が鬼に成った
大将)よし 辞めたらええ 其の替わり長三郎の名前返せ 月給返せ 裸で出て行け
ポスター屋の清正堂の社長が一万圓出してマキノから自由に成った
清正堂がスポンサーで独立プロを作った
芸名は嵐寛寿郎
昭和三年(1928年)五月23歳
第一回作品は 鞍馬天狗
松尾文人は横浜出身 4歳で新派の初舞台 6歳で映画デビュー マキノプロダクションのスター子役 現在も健在
片岡千恵蔵は作家直木三十五の紹介でマキノに入る 辞めた後 片岡千恵蔵プロダクション設立
月形竜之助は宮城県出身 18歳で日活映画デビュー 牧野教育映画製作所を経てマキノプロダクション 24歳の時妻子在る身で 9月にマキノ省三の四女と駆け落ちし マキノをクビに成る 12月解消して戻る 翌年寛寿郎と千恵蔵がマキノ入社 寛寿郎と同い年
岡島艶子は名古屋市出身 12歳で松竹映画デビュー マキノの娘役女優
鈴木澄子は東京出身 15歳で映画デビュー 後に化け猫女優として有名
高木新平は長野県出身 18歳で映画デビュー スタントマン無しの危険な演技で鳥人と呼ばれて居た
山本礼三郎は東京出身 19歳で映画デビュー マキノの仇役俳優 寛寿郎と同時期にマキノを辞め 山本礼三郎プロダクション設立
杉狂児は福岡出身 20歳で映画デビュー マキノの喜劇俳優
マキノ正博は京都出身 マキノ省三長男 子役で日活映画デビュー 後に映画監督・プロデューサーとして日本映画の黄金時代を築く
二川文太郎は東京出身 中央大学中退後 24歳で牧野教育映画製作所監督デビュー 坂東妻三郎の名作 雄呂血の監督
井上金太郎は東京出身 18歳で映画デビュー 牧野教育映画製作所を経て マキノ映画製作所で映画監督に成る
忠魂義烈・実録忠臣蔵は昭和三年に公開された マキノプロダクションの集大成的大作だった筈だがマキノの家で編集中に失火して 大量のネガと家が全焼してしまった 残ったフィルムを編集して何とか上映にこぎつけた 寛寿郎は寺坂信行役
寺坂吉右衞門信行:赤穂浪士四十七士の一人 足軽身分で一人だけ切腹せずに83歳迄生きた 忠臣蔵では討ち入りの様子について 浅野家の所縁の者へ伝えるよう大石から命を受けて 瑤泉院や広島に蟄居していた浅野長広の元へ行った様に描かれる
マキノ時代に鞍馬天狗余聞・角兵衞獅子を始めとして一年三ヶ月で27本の作品其の内20本か21本は主役 残りは準主役 一本だけ喜劇でチョイ役
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