2012年1月19日木曜日

寛プロ立往生



天下を取った気分だったが 借金の上に作った泥船
直ぐに沈んで仕舞った
清正堂はポスター屋 素人の悲しさでスタッフが集まら無い
配給が止まる ポスター屋が女将さんに内緒で金を借りて居た
此れがバレて夫婦喧嘩
金が止まって破産 月給千圓 芸者もパー

当時役者の独立プロが乱立して居た
坂東妻三郎プロダクション
大正14年(1923年)発足 昭和2年(1927年)松竹傘下に
市川右太衞門プロダクション
昭和2年(1927年)発足 昭和11年(1936年)松竹吸収
片岡千恵蔵プロダクション
昭和3年(1928年)発足 昭和12年(1937年)解散
山口俊雄プロダクション
昭和3年(1928年)発足 2ヶ月で解散
中根龍太郎喜劇プロダクション
昭和3年(1928年)発足 2ヶ月で解散
市川小文治歌舞伎プロダクション
昭和3年(1928年)発足 2ヶ月で解散
山本礼三郎プロダクション
昭和3年(1928年)発足 2ヶ月で解散

全国150館の独立系映画館主が日本活動常設館館主連盟映画配給本社を設立し  配給会社の中間マージンを排除し 独立プロダクションへの製作費のダイレクトな出資および興行を目指した
同時期 寛プロ・片岡千恵蔵プロダクションと山口・中根・市川・山本等が日本映画プロダクション連盟を設立
しかし 独立プロダクションへの 製作費の出資と興行を担う 日本活動常設館館主連盟映画配給本社 が3ヶ月後に瓦解
寛プロ・千恵蔵プロ以外はあっけ無く解散した
又 大手映画会社(日活・松竹・帝キネ・マキノ・東亜)の干渉により 独立プロの映画を劇場で掛けさせ無くして来た

此方は世間知らずで理解不能 
遂にポスター屋が夜逃げする
代表者の名前は嵐寛寿郎 従業員を置いて逃げられ無い
昭和3年5月から其の年の暮れ迄に7本製作して解散
其の内の5本が主役 内 鞍馬天狗は2本

山口俊雄は熊本出身 18歳で文士劇初舞台 マキノプロダクションを経て独立 プロダクション解散後は新派の舞台に戻った
新派:明治21年(1888年)に始まった演劇の一派 演目設定が明治期で歌舞伎を旧派と呼んだ

中根龍太郎は京都出身 14歳で浅草オペラ初舞台 マキノプロダクションを経て独立 プロダクション解散後は松竹入りした 独立プロの中に榎本健一が居た
浅草オペラ:関東大震災迄の大正期浅草で上演され、一大ブームを起こした 西洋音楽の大衆化に大きな役割を果たした

市川小文治は大阪出身 子役から名題役者となった関西歌舞伎の時代からマキノプロダクションを経て独立 プロダクション解散後は日活入りした

山本礼三郎は プロダクション解散後日活入りした

役者と右翼の関係
立花良介:大分出身 坂東妻三郎プロダクションの太秦撮影所設立のスポンサー 右翼玄洋社の海外工作を担った黒龍会の内田良平の親戚

笹川良一:大阪出身 国粋大衆党総裁 大阪電気軌道(後の近鉄)が所有して居た あやめ池遊園地の敷地内を斡旋 其処に市川右太衞門プロダクションが撮影所を設立

池永浩久:大分県出身 俳優を経て東京日活向島撮影所長から日活大将軍撮影所長 片岡千恵蔵プロダクションの作品は日活配給 池永のバックは京都千本組で千本組は大日本国粋会西京支部 大日本国粋会は玄洋社の頭山満が顧問の博徒系右翼団体








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