聞書2 天狗売り出す
板から泥へ
十一代目仁左衛門は 癇癖な人で在った
奴を踊った千栄蔵を 鈍な役者だと傍に在った真剣の峰で顔を殴った
離れて見て居て 心が寒く成った
八千代座のポスターを作って居た 清生堂の社長が
マキノ映画に入らないかと持ちかける
市川右太衛門と市川百々助は 既に映画界に入って居た
当時の映画界は身分が低かった
河原乞食の歌舞伎の更に下で在った
其れを聞いた叔父徳三郎は 板から泥に落ちるとは どう云う了見かと
横面を張り倒した
祖母を始め親戚一同反対したが 母親が賛成した
其れは 条件が月給八百圓 当時家一軒買えた
銭の魅力は一番だったが 歌舞伎の世界に未練が無かった
十一代目の千栄蔵に対する仕打ち
歌舞伎だ古典だと云うが 阿保でも名門の悴は出世出来る
実力が在っても 歌舞伎の家系ぢゃ無いと 一生冷や飯食いにされる
河原乞食の下と軽蔑されても
大きな金を稼いで 主役に成って 思う様生きたい
死んだ人の悪口は云いたく無いが
十二代目仁左衛門は書生に飯を食わさず殺された
芸能の成り立ちはこんな物で在る
芸術関係無し 子供の頃居た 賀茂川の河原の祭文語りや新内流し
彼等の哀れの深い節回しに 及ぶ芸を持って居るのか
今でも映画俳優に成った事は後悔して居ない
人を娯しませたらそれでええ(原文)
扨々 ポスター屋の清生堂の社長が マキノと交渉して 入社を決定
遂に御大 マキノ省三に会う為 御室のマキノ撮影所の門をくぐった
コチコチに緊張して居た
マキノ映画は牧野(マキノ)省三が1925年に設立したマキノプロダクション
市川右太衛門はマキノプロダクションに入社して居た
市川百々助は大正12年(1923年)17歳で帝国キネマ演芸に入社して居た
河原乞食:平安時代に牛の皮革を剥ぐ河原人が居た 室町時代には屠畜や皮革加工で河原やその周辺に居住して河原者と呼ばれた 河原者は井戸掘り・芸能・運搬業・行商・造園などに従事 中には田畑を所有し農耕を行った例もある 徳川家康が征夷大将軍に成った頃 京都北野天満宮で巫女或は河原者と云われた出雲阿国が 舞台を掛け興行を行う 御所で かぶき踊り を演じ 四条河原などで勧進興行を行った 多くの模倣者が現れ風紀が乱れた 家康は穢多非人の頭領 矢野弾左衞門(世襲13代迄在る)に河原者の支配権を与える 家光の頃現在の男だけで演じる歌舞伎と成った 綱吉の頃 京都の傀儡師小林新助が興行妨害で弾左衞門を江戸町奉行に訴え 勝訴して 傀儡師・歌舞伎は其の支配から脱したが身分は変わらなかった
傀儡師:半狩猟半芸能の流浪の民や旅芸人 操り人形の人形劇を行い女性は劇に合わせ唄い 男性は奇術・剣舞・相撲・滑稽芸を行っていた 操り人形は人形浄瑠璃と成り その他の芸は 能・式三番・狂言・歌舞伎に成った
板から泥に落ちるは 檜舞台から地面で芸をやる 即ち先祖返りに成る事
祭文語り:三味線を伴奏に 流行歌謡や浄瑠璃を取り入れた 歌祭文を語る芸人 浪曲の源流
新内流し:新内節を2人1組で 三味線と 其れより高い調子の三味線で合奏しながら歩く 呼ばれたら座敷に上がるか屋外に立って芸を聞かせる
牧野(マキノ)省三は京都府生まれの映画監督・映画プロデューサー・実業家 日本最初の職業的映画監督 日本映画の父 30歳の時 義太夫師の母の経営して居た京都千本座で舞台の映画を監督 初の時代劇映画 尾上松之助の映画を10年間撮る 牧野教育映画製作所を設立 マキノ映画製作所に改組してマキノ省三に改名 坂東妻三郎を世に出す 其の後マキノプロダクションを設立
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