2012年1月14日土曜日

芸名・嵐長三郎



子供の頃 祖母に預けられてた時分
尾上松之助 目玉の松ちゃん から声が掛かり養子縁組の話が在った
松之助は二代目尾上多見蔵の後援で各地を巡業して居た
ドサ廻りの役者上がりで在った為 嵐家の葉村屋の血統が欲しかった
祖母に連れられ 日活大将軍撮影所に 会いに行った

夏の事で ロケから帰った役者が衣装を脱いで 行水して居た
此れが皆クリカラモンモン
断わって丁稚に成った
と 映画とはそう云う縁が既に在った

マキノ省三と会うと 意外にやさしい人だった
其れ迄の給金月百五十圓が 八百圓に成った
当時親子三人で月三十圓在れば暮らせた

講談社の少年倶楽部昭和二年三月号を 前に放り投げ
此の中から やりたい役を選べと云われた

徹夜で読んで 角兵衞獅子 此れに決めた
鞍馬天狗やりたいと マキノの大将に云う

立ち廻りを 大将自ら特訓してくれた
運動神経は良かったので 直ぐ様に成った
芸名は顔が長いので 嵐長三郎に成った

大将)お前 女は好きか
長三郎)へぇ 嫌いやおへん
大将)そら あかんなぁ
長三郎)・・・・・
大将)えぇか 女ぉ好きに成ったら あかんのやで オメコやったら何ぼでも好きに成れ 

商売もんに手を出すな 女優も素人も御法度

第一回作品
鞍馬天狗余聞・角兵衞獅子
監督 曽根純三
脚本 山上伊太郎
撮影 三木稔






尾上松之助は岡山県出身 岡山で公演中に牧野省三に見出されて映画界入りする 日本初の映画大スター 生涯で1000本以上の時代劇映画に出演 大正十五年九月映画撮影中に倒れ死去 京都堀河丸太町を白装束の列が続いた盛大な葬式で在った 参列者5万人 沿道は20万人の人で埋め尽くされた

二代目尾上多見蔵は京都出身 ちんこ芝居から三代目中村歌右衞門・三代目尾上菊五郎門下と成り 明治12年(1879年)79歳での舞台出演料が80日間四千圓(4000万或は其れ以上)で在った

天竺徳兵衞万里船の大工六三を演じる多見蔵 天保12年(1841年)
嵐家は西崎三右衞門を祖とする歌舞伎の名門だが 大正期に入ってからは斜陽の一門で在った
西崎三右衞門:尼崎出身 1635年〜1690年 父が浪人して江戸へ行き魚問屋を営む 幼くして江戸へ下り 時の名優初代鈴木平左衞門の門人から役者に成り 丸子三右衞門を名乗る 小夜嵐と云う芝居の台詞に 花に嵐・・・ と在り 芝居の大当りで嵐と異名を取り 丸子を嵐と改姓する 上方に戻り当時の評判記によれば最高位で在った 興行の責任者で在る座本でも在った 上方歌舞伎の創始者とも云われる 
三右衞門の弟 嵐勘右衞門 其の子初代勘四郎 其の子二代目勘四郎 其の門弟初代嵐吉三郎(岡島屋) 其の長男初代嵐徳三郎(三笠屋)及び3男初代嵐璃寛(岡島屋) 初代嵐徳三郎の門弟二代目徳三郎二代目璃寛(伊丹屋) 其の門弟三代目徳三郎三代目璃寛(葉村屋) 其の子四代目徳三郎四代目璃寛(葉村屋) 初代璃寛の孫が四代目璃寛の養子と成り 五代目徳三郎五代目璃寛(葉村屋) 四代目璃寛の孫が六代目徳三郎(葉村屋)で寛寿郎の叔父

けいせい石川染の堀尾帯刀を演じる四代目 慶応2年(1866年)
葉村屋は嵐家の屋号
屋号:矢野弾左衞門からの支配が解けた歌舞伎の役者達は 表通りに住む事を許される 表通りは商家と決まって居たので 役者達は各々商売を始める 其の店の屋号から役者を呼ぶ

日活大将軍撮影所は日本活動写真株式会社(日活)の映画スタジオ 牧野省三が最初に設立した映画会社ミカド商会が 其の頃日活に吸収されて居た

クリカラモンモンは倶梨伽羅紋紋 不動明王の化身倶梨伽羅竜王の姿を彫った彫り物 或は他の図柄の彫り物全般を指す

少年倶楽部は小学校後半から中学校前半の少年を対象として大正3年(1914年)に創刊され 大衆作家の少年向け長編小説を連載して居た

鞍馬天狗は大佛次郎の時代小説シリーズで 幕末を舞台に勤王の志士 鞍馬天狗 が活躍をする様を描いた大衆小説の代表作
大佛(オサラギ)次郎:神奈川県出身 東京帝国大学法学部政治学科を卒業 外務省嘱託 関東大震災後外務省を辞めて本格的に作家活動に入る

曽根純三は大阪出身 職人監督 デビュー年に5本を監督した
山上伊太郎は京都出身 マキノ・プロダクションの名脚本家
三木稔はマキノ・プロダクションのスターカメラマン





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