此の頃 朝掛けで撮った 安永巷談・黄総の十手
此れが知ら無い間に売られて居て 河合プロダクションで
封切りと成った 浅草三友館
叔父徳三郎一座の舞台 浅草宮戸座の目と鼻の先
映画と同じ演物を舞台でやる 主演は嵐寛寿郎
映画見た其の足で 本人の実演が見られる
此れが当たった ワーッと客が並ぶ
木戸銭の雨が降る
都落ちして三ヶ月 東亜キネマから迎えが来る
昭和四年三月一日 一等列車で京都凱旋
原駒子 雲井竜之助 団徳麿 小笠正人 新聞雑誌
京都の駅頭にズラーッと並んで お出迎え
寛プロ残党に電報を打つ
第一作は 新説荒木又右衛門 広瀬五郎監督
第九作が右門一番手柄・南蛮幽霊 脚本山中貞雄
山中貞雄
芒洋としとる スローモーション 無精ヒゲ生やして
ドテラ着て会社に来る チェリーの空き缶 帯に括り付けて
其れに ポンポンと煙草の灰を叩く
新青年と云う雑誌ばっかり読んどる 仕事しとんのか
着るもん無いのか 乞食やで ほんまに
洋服買ぉたれ 洋服買ぉたると 其れ質屋に入れて
又ドテラ着とぉる ところがシナリオ見てたまげた
こら天才や 監督にせぇと
東亜キネマから第二次寛プロ 新興と提携した 昭和七年
磯の源太・抱寝の長脇差し 小判しぐれ
川を流れて行く笠にタイトルかぶせ 流れ・流れて・此処は・何処じゃと
キャメラも流れ流れて
馬子衆に問えば・此処は信州・中仙道
立木の廻りをキャメラが廻る 春夏秋冬 花が咲き葉が繁り
葉が落ちて四季は巡り 一年経ったと
天狗廻状 シナリオ見たら 五十人斬り殺すと
あかん嘘や 立ち回りできんと云う
山中 此れでええ 彦根ロケ
ワッと絡みが斬り掛かる 天狗城門の中へ
絡み 追う ワーッとなだれる
パッとキャメラ切り替わる
悠々刀を納める天狗 ズイッとキャメラの前へ
後方死屍累々 うーんまいった
河合プロダクションは河合徳三郎が設立 後に東亜キネマを合併して大都映画と成り 戦時統合して大日本映画製作所と成り戦後大映から角川映画と成る
河合徳三郎:岐阜出身 実業家・博徒・右翼・映画プロデューサー・政治家 東京で土木建築請負業 河合組を設立 頭山満を顧問に大日本国粋会を結成 大日本国粋会を脱会後 後藤新平を顧問に大和民労会を結成 東京府会議員
浅草三友館は 映画会社・吉沢商店(現在の日活の前身の一社)が建設開業した映画館 戦後東洋興業が取得し 跡地にストリップ劇場 フランス座から現在浅草フランス座演芸場東洋館
東亜キネマは八千代生命が映画事業に乗り出し 甲陽キネマ撮影所を買収して設立 マキノ映画製作所を吸収合併 牧野省三は東亜キネマから独立しマキノ・プロダクションを設立 八千代生命が映画製作事業から撤退 阪急電鉄の宝塚映画が資金提携 牧野の長女の夫・高村正次が買収 宝塚キネマを設立
原駒子は神奈川県出身 妖婦・毒婦役で知られ 姐御女優 と呼ばれた 14歳で松竹入社 帝国キネマ演芸に引き抜かれ 其の後東亜キネマに入社
雲井竜之助は東京出身 剣戟役者 19歳で東亜キネマ入社
団徳麿は兵庫県出身 剣戟役者・脚本家 23歳で東亜キネマ入社 丹下左膳役を演じた第1号俳優
小笠正人は東亜キネマ撮影所長
新青年は1920年代から1930年代に流行したモダニズムの代表的雑誌 都会的雑誌として都市部のインテリ青年層の間で人気を博した 国内外の探偵小説を紹介 江戸川乱歩・横溝正史等 多くの探偵小説作家の活躍の場と成る 牧逸馬・夢野久作・久生十蘭といった異端作家も生み出した 平均発行部数は3万部前後 多い時は5~6万部に達していた 1950年7月号で終刊
昭和七年(1932年)30歳
当時の世界の出来事:第一次上海事変・満州国建国・ロサンゼルスオリンピック 開幕・ドイツ総選挙でナチス党圧勝・米大統領選挙でルーズベルト当選
当時の日本の出来事: 朝鮮人李奉昌が天皇陛下の馬車に爆弾を投げる・チャップリン来日・五一五事件で犬養毅首相殺害・株式会社東京宝塚劇場(東宝)設立
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