2012年1月26日木曜日

山中貞雄



1909年(明治42年)11月8日 京都市東山区本町通五条下ルに父・喜三右衛門、母・よその末子として生まれる 1922年(大正11年) 旧制・京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校)に入学 同級生に脚本家藤井滋司 1年先輩に牧野省三の長男・マキノ正博(のちのマキノ雅弘) 1927年(昭和2年) マキノ正博を頼って マキノ御室撮影所入社す  正博は活躍できる様にと1928年(昭和3年) 山中を脚本家兼助監督として 嵐寛寿郎の第一次嵐寛寿郎プロダクション(寛プロ)に移籍させる その年に寛プロは失敗解散 実家に戻った山中を親戚一同は縛り付ける様に足を洗えと説得した 1930年(昭和5年) 嵐寛寿郎が東亜キネマに招かれると 山中を含む旧寛プロのメンバーも参集 嵐は山中のシナリオを読んで天才だと評す むっつり右門シリーズの脚本で真価を確信した嵐は1932年(昭和7年) 長谷川伸の戯曲を脚色した 磯の源太 抱寝の長脇差 を監督第1作として発表 此れが映画評論家岸松雄の目にとまり大絶賛され 処女作にしてその年のベストテンに名を連ねる 山中は22歳の若さで日本映画界の巨匠の仲間入りをする  別名に阿古三之助・社堂沙汰夫が在る 共同名で梶原金八(鳴滝組)

寛寿郎が辞めてもマキノとの縁は続いていた 山中を寛プロに出す時にも省三は知って居て黙って居た マキノ時代山中は後藤岱山に付く 其の後仁科熊彦から映画製作の基本を教えられる




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